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ぼくのりりっくのぼうよみ「Water Boarding -Noah's Ark edition-」の歌詞を読む

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 最近は専らぼくりりを聴いていて、最新アルバム「Fruits decaying」も時間があれば聴きたいところなのです。

 さて、私はアルバム「Noah's Ark」の中でWater Boardingが一番好きで、次点で在り処、もしくは表題作です。早速歌詞を見ていきましょう。ブログに歌詞をまるまる載せることは出来ないので、うたてんという歌詞サイトのURL載せておきます。

utaten.com

※個人解釈です

 ”水が落ちる”ところから始まるこの歌は、閉塞感や絶望感が溢れている。verse1では密室に水が溜まり始め、水位の上昇と共に水が身体を侵食していく様子が歌われる。更に死への意識や後の歌詞にも現れる”現実”というキーワードが出てきている。”からから廻る~日々が愛おしい”という状態は、現実というものを特に意識することなく、ただただ過ごす日々のことだろうが、もはやそんな普通の日々が愛おしい程に、今は空っぽなのだ。

 サビでは、正にしか流れない時間を可視化できるものとして砂時計が置かれ、嫌でも時間の経過を意識させられてしまう。そしてこの最初のサビでは"まだ生を諦められない”と締められる。

 verse2では、水に侵されて命の終止符が打たれる。しかし、この水というのも想像のようなものでしかないので、"彼はまたこうしてやり直す”と続く。恐らく昼と夜が繰り返されるように、この精神的な死は繰り返されるのだ。verse2の最後では、"幕の閉じる一瞬が最初で最後の生"と締められる。つまり、生物的に生きている間に、自身は生きているのだと感じられなかったのだ。

 そしてまたサビが来る。二回目のサビでは、一回目のサビの歌詞に加え、砂時計の砂が落ちきる瞬間が歌われる。時間の経過が死をもたらし、生れてきた事が既に過ちで、それが償われないと、まるで自分の人生が無意味であるかのように続く。

 二度目のverse2は少し変わり、その命の幕が閉じる一瞬に救いの光が現れる。しかし、死の瞬間に訪れる救いの光が一体何の役に立つだろうか?

 そしてサビで驚くべきことが起こる。不可逆であるはずの砂時計が、まるで弄ばれているかのように裏返されるのだ。ここで今更だが、Water Boardingについて書いておこう。water boardingとは水責めの拷問の一種である。現実を失った状態とは、拷問宛らという事なのだろうか。

 verse3では、救いの光が現れ、水も引いていく。しかし、”浅はかな夢 変わらない常 救済の船は甘い幻想だった” と、どうにも自らの存在を嘲笑うようにして、自分を見つめている。そして、”まだ水の中で命ごと溶けていく”と歌われる。ここまでの歌詞でも、命には溶かすという動詞が充てられる。それは一瞬で死を迎える事故などとは違って、じわじわと絶望に浸されながらの果ての死であるという事である。

【総括】

 ”現実を失う”という簡単な言葉に、どれだけの悲愴や苦悩や絶望があるだろうか。言うまでもなく現実とは概念であって、そこらにあるような家とか空き缶とは違い抽象的なものである。だからこそ余韻を残すのだなと思いました。

 しかし、こういった歌詞の解釈は初めてしたのだけれど、普通の詩とは違って歌詞であり、歌であるので、同じフレーズのリフレインはあって当然なのだが、それが扱いにくくてどうにも解釈しにくかった。この歌はある程度ストーリーが目に浮かぶと思うが、どうにもループ物の小説の様に思えてしまいました。

 まあここまでは序の口です。なんて言っても歌なのですから聞かなければならないでしょう。歌であることは大きな強みだと私は思います。人々が歌い、口ずさむ。詩と言う意味では普通の現代詩とかのほうが好きだけれど、影響力はやっぱり歌の方が大きいと思う。

 

 あ、あと少しずれる話なんですが、ボカロ小説とかってあれ一般的に言って面白いんですかね?読んだこと無いのですが。あとボカロの動画を見ていて、ストーリー性のある曲に小説化希望!なんてコメントが流れていたりするのを見ると、なんかすごい嫌悪感があります。なんででしょう。 

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