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スリップストリーム文学についてとそれを誰が書いているのか

 今日は暖かく丁度良い陽気ですね。さて、昨日はアンナ・カヴァンの『氷』を読んだことをちらっと書いたのですが、この小説の序文における文頭で、

『氷』はスリップストリーム文学、それも、スリップストリーム文学に分類される中で最も重要な作品のひとつだ。

 とクリストファー・プリーストが言っている。

 スリップストリーム文学の簡単な定義としては、主流な純文学から外れた、一種の幻想文学、あるいは非リアリスティックな文学とウィキペディアには書かれているが、実際には本質的に定義不能であるらしい。

 『氷』を読了して思うことは、非リアリスティックで幻想的であり、言い換えればリアリスティックな夢想と言った感じである。

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【内容について

 主人公である「私」は氷が世界を侵食し始めた世界で、銀白色の髪を揺らす折れそうなほど骨の細い「少女」を追い求めるのだが、その「少女」がいるところには決まって「長官」がいて「少女」を支配している。「私」はあらゆる手段を講じて「少女」を自分の身に置こうとするが、会ってみれば「少女」は「私」を酷く拒絶する。そして「長官」が「少女」を連れて行くので、「私」はまたそれを追いかけるといった、いたちごっこである。

 氷が世界を侵食していく世界で「私」が「少女」を求めて進む様子はかなり非リアリスティックな雰囲気が感じられる。途中で「私」の夢想の様な描写の中でも「少女」が出てきたり、求めている「少女」であるのかがはっきりしない「少女」すら登場するのだ。さらにあらゆる背景(時代や名前など)が明示されない。つまり「私」にせよ「少女」にせよ、存在が安定してくれないのである。

 

【名前を持たせない文学】

 『氷』に出てくる人物は名前を持たない。いずれも上記の通り「私」や「少女」「長官」といった具合である。これも存在が安定しない原因の一つだと思っているのです。今回の様な海外文学であれば、恐らく名前があっても日本人の私にとっては名前による先入観はさほどないと思うが、もしこれが日本文学であれば、名前の先入観というのは大いにあると思う。例えば「太郎」という名前がついていたなら、どこか平凡な印象を受けてしまうかもしれない。(太郎さんごめんなさい!) 逆に、最近は難しい漢字を使った主人公というのは多数あるが、それによってある意味、新しく現れた名前に印象付けていることになるのかもしれない。名前を持たないことは、普通はあるはずの一つの枠組みを持たないことになる。それは小説という枠組みの中で重要な大きな欠落だと思う。

 枠組みの無い中を主人公が奔走するので、どこまで行くのか、どこへ向かうのか、どこにいるのかが分からずに、まるで四次元の空間で物語が展開されているような存在感の希薄がそこには感じられた。だからこそ、侵食する氷によって荒涼とした世界であらゆる危機から逃れようとする描写は、何が起きるか分からない不安感を引き起こすのだ。

【誰が書いているのか】

 最近は海外文学しか読んでいなくて、現代の日本文学に疎いのです。もし、日本の文学でスリップストリーム文学的なテイストの小説が有ったら教えてもらいたいところです。舞城王太郎とかってどうなんだろうか、『阿修羅ガール』とか『淵の王』なんかはかなり異質だと思うんだ。それでいて舞城ファンは結構多いと思う。もしかして、一般的な純文学よりも、スリップストリーム文学の方が人気なのでしょうか。

 いや、でもこのエンタメ好きの読者が『氷』を読んでも、やっぱり楽しめないと思うなあ。

そういえば何故これを読むに至ったかというと、以前に古書ドリスという古書店に行った際に、皆川博子さんの出した『辺境図書館』という皆川さんがおすすめの小説を紹介した本が発売されたばかりで、そのフェアをやっていました。そしてそのフェアの棚の一番上に『氷』があったのです。まあ、そこに売られていたのはサンリオSF文庫のもので非常に高価でしたので、ちくま文庫のものを買いました。サンリオSF文庫は物によっては凄い値段がついていますよね。

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