仄暗いほど柔らかい

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詩の解釈の正しさ / 詩の解釈の自由

 何か思うところのあるような、直感的に、ああこの詩は好きだなあという詩の出会いは何度かあると思う。しかし、実際にその詩について調べてみると、その詩人研究のパイオニアが正しいであろう詩の解釈を示していて、自分の思い描いていたビジョンとは全く違っていたりする。私がその詩人の生きていた時代背景や生い立ちや思想を知らないのだから、違っていて当然とも言えるけれども、その二つの解釈の狭間でジレンマに陥ってしまうかも知れない。と言いつつも、でもやっぱり実際には自分の最初の解釈を信じたくなると思う。

 私としては、やはり解釈は何処までも自由である方がいい。もちろん、作者の思い描いていた正しいビジョンを求めることも重要だ。ただその "正しい解釈" というものを押し付けるなんてことが無ければである。だから、詩に対する解釈に対して、それは時代的な背景から考えればありえないよ、という指摘は非常にナンセンス。寧ろ、時代が今であるからこその解釈が生れるというのは面白いことだと思うのです。

 以前「100分で名著」という番組で、中原中也の詩集について伊集院光さんらが話していて、伊集院さんの独自の解釈に対して、解説役の方も、それでいいのですよ。と認めていたし、逆に正しいとされる解釈を説明した時にも、伊集院さんは「なるほど!そういう意図が中也にはあったんですね!」と、なんとも楽しそうだった。

 詩を楽しめることは重要だなと思いました。

 そして何よりも願うことは詩を読む人が増えることですね。最近の詩人さんたちの中で言えば、最果タヒさんはかなり受け入れられている詩人さんですよね。紀伊国屋書店の棚のフロントスペースにどーんと書籍が展開されていたり。実は現代詩は殆ど読めてないのですが、読んでみたい方は結構います。最果タヒ、文月悠光、暁方ミセイ、広瀬大志(敬称略)などなど、、、

 因みに、私の解釈と正しい解釈が違っていた例としては中原中也「月夜の浜辺」という詩です。私はこれを、「ふと拾ってしまったものが妙に大事なものであるかの様に思えてきて、どうにも捨てることは出来ない」といった風に読んだのですが、実際は中也の弟の死に関する詩であり、ちょっとずれていました。ただ、この詩を知ったのは、中原中也小林秀雄の二人を描いた「最果てにサーカス(月子著)」の冒頭シーンで、二人が出会いの場面において中也が読んだのでそういう風に解釈したのだと思います。この場面においてはむしろ自分の解釈の方がパズルがぴったりはまっている気がします、、、

  詩は誰かと話すのが面白い、でも詩を読んでいる人は少ないので話す人がいません。一番の問題はここにあるのですよ笑

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