現代詩人「小笠原鳥類」を意味不明だと思ってしまったがやっぱり面白かったという話
まずは詩人「小笠原鳥類」を知らない人のために簡単なプロフィールを
小笠原 鳥類(おがさわら ちょうるい、1977年 - )は、日本の詩人。岩手県釜石市出身。早稲田大学卒業。文章の構造を組み替えた、主語や述語にとらわれない文章を基調とした現代詩を多く発表している。詩には水中の動物や音楽に関した言葉が用いられることが多い。
そして実際に彼の詩を読んでみたわけなのだが、如何にも難解な風であり困惑した。私が買ったのは現代詩文庫から出ている「小笠原鳥類詩集」であり、その中で最初に出てくる詩は「(私は絵を描いていただけだ。/船に時間差爆弾を仕掛けていたのではない)」という詩であり、これはこれで困惑なのだが、引用するにはルビが振りにくいので、その次の詩「犬」を引用しよう。
敵が増大している(一般論です
自分にとって嫌なものは、自分の中で
ふくらむ(犬の卵(犬の卵(犬が
嫌いなので、それについて語ろうと
思っているのですが、犬が好きな人が
「残念ながら」多いので、個と普遍の
バランスの取れたところでしか、私で
ありながら他人であるというふわふわの
木星生物は生まれない(ああ。ああ
・・・以下続く
こんな感じで続いていく。これはまだ読みやすいかもしれない。しかし、犬の卵やら木星生物やらよく分からない単語が見受けられる。これはこの詩に限ったことではない。更に、詩のワードに全く関連のないルビが振られていたり、主語述語が全く機能していない詩も多い。
さて、詠み惑った私はどうしたかというと、まず解説を読んだ。解説というよりも作品論であるが、筆者は入沢康夫氏、田野倉康一氏などであり、どれも面白い詩の見方だった。
入沢氏は小笠原鳥類の詩の特徴として「動物=言語」であることを挙げる。面白いと私は思ったが、さあどういう風に詩を読もうかとまだ悩むところである。
次に田野倉氏の論で私にとっての結論が出た。こう言うのだ。
もはや読者は、共感するのではなく、自らをその作品の主体と交換し、個別固有の主体である自らのリアルのおいて、その詩を生きるしかない。
私は思わず、ああと唸ってしまった。そうか、私は詩に書かれている文字の意味を考えるのではなくて、詩の中に入りこんで、その景色を見渡せばいいのか、と。俄然読むのが楽しみになってきたのだ。
そして現在読み進めているのだが、まあまあ楽しめていると思う、大分ゆっくり読んでいる。
あと、小林銅蟲氏が、冒頭で言った「(私は絵を描いていただけだ。/船に時間差爆弾を仕掛けていたのではない)」という詩を果敢にも漫画化している。
小林氏の他の漫画もかなり面白いです。特に夏休みが永遠に続くやつとかかなりおすすめ。
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