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朝吹真理子の曖昧さと連なり「きことわ」「流跡」、あと芥川賞について。更に、いまさら「コンビニ人間」

朝吹真理子の「流跡」「きことわ」】

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 朝吹真理子の「流跡」「きことわ」を読んだところ、正直に日本文学の中でなら一番に好きと言えるかも知れない作品だった。因みに二つの内どちらが良いかと聞かれたら「流跡」だと思う。

 「きことわ」と言えば、第144回芥川賞受賞作品である。しかしまあ、芥川賞作品の殆どが一般読者に対して共感は得られないように(amazonレビューが大体★3個以下)、「きことわ」も検索すればするほど、意味が分からない、何が面白いのか、などといった感じです。

 この二つの作品は端的に言って曖昧な要素を多く持っている。「きことわ」で言うならば、車の中で貴子と永遠子がじゃれあうシーンでは、二人で縺れ合っているうちに、絡まる手足のどれが貴子のものでどれが永遠子の物であるか分からなくなっていく。また別の場面では、夢から覚めると雨が降っていて、急いでベランダの洗濯物を取り込むけれど、次の瞬間にはまたベランダに洗濯物が干されていて、幾度か繰り返したのちにやっと夢から覚めるが、夢か現かが曖昧に思えてくる。序に言えば時間というもの自体の曖昧さも示してくる。

 こう言った曖昧さの中で、昔を共に過ごした別荘の解体をきっかけに貴子と永遠子が25年ぶりに再会して、会話を交わす。だが、またしてもその会話に出てくる記憶は曖昧で合致したりしなかったりするのである。この作品の面白さとは、殆どがこの曖昧さの中に存在すると言ってもいいかもしれない。だからもし、ストーリーだけを追ってしまったなら、それは面白くないと思う。

 そして最初に、自分は「流跡」の方が好きだと言ったのは、こちらの方が「きことわ」よりも短いページの中で、そして明らかに奇妙な世界観の中で曖昧さを描いていたからだと思う。「流跡」方が圧倒的につかみどころがない。振り回される。そう言うものが自分は好きなのかなと。

 曖昧曖昧と何度も言っているけれど、一言で言えば境界が曖昧なのだ。境界は至る所に存在している。物理的なものよりも精神的なものの方がよっぽど多いだろう。人間と自然、空と地面、男と女。幾らでも出てくると思う。それを曖昧にする、無くそうとする、そのための表現が面白いのだ。

  あと、書きつつ思ったことに、「きことわ」には、貴子と永遠子が時間も空間も別なところで髪が突然引かれるというシーンがある。あれは多分、二人の縺れ合って絡まる髪の毛との呼応と、不連続の時間を連続にしていたのかもしれない。

芥川賞について】

 芥川賞作品を好んで読む人がどれだけいるのでしょうか。正直、趣味が読書である人の中でも圧倒的に少数派だと思う。「一般読者」という人達を、エンタメ作品好きの読者と勝手に決め込んでいたのだけれど、まあ大体事実かなと思っています。だからこそ誰が読んでも面白く読める文章でありながら、芥川賞が取れるような要素を持ち込んでいた「コンビニ人間」は力のある作品だ。描かれたのは、【普通】とは何か?みたいなことだと思っています。30歳なんだから結婚しているのが普通だと考える人は多くいると思う。これが普通だろうと普通でない人に迫ってくる。多数派がいれば少数派がいるのは当たり前なはずなのに、多くの人は普通でない人、多数派でない人を排他的に扱う。その愚かさに気付いていない人がいるのではないかということの警告として、そういう要素を埋め込んだのが「コンビニ人間」だと思っています。

 あれだけ売れた「コンビニ人間」を読んだ人の中で一体何人がそれを読み取れているでしょうか。気になるところです。

  

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