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球体関節人形の蠱惑的な世界

 球体関節人形というものをご存知でしょうか?球対関節人形とは、関節部が球体によって形成されている人形の総称であり、自在なポーズを取らせることが可能である。

 もし今までに球体関節人形というものを見たことが無い方は一度検索してみると良いと思います。著作権の関係で掲載できないですが、数多くの人形がヒットします。

 さて、この球体関節人形は、それを製作する作家によって明らかに持ち得る雰囲気は異なる。眼球一つとっても、その素材がガラスであったりアクリルであったり、更にその体の作りには作家独特のものが詰まっている。そして、そこに表現されるのは蠱惑的な身体である。

 では、このような球対関節人形の蠱惑的なものの根源はどこにあるのだろう?如何にも人間そっくりに作られた人形や四肢が欠損している人形、身体に鎖がめり込んでいる人形、眼の焦点の合わない人形。例を挙げだしたらきりがない程に表現は多彩である。その中で否応にも表れるのが、実際の人間と球体関節人形との対比である。このような人形を目にした際には、殆どの人が人間との違いをその人形に見る。

 例えば、人形の目が虚ろである時、そこに何が映っているのかを私たちは知ることが出来ない様に思われる。人形の目の前に立ったとしても、こちらを見つめてはくれないかもしれない。私たちはその目がどこに向いているのかを考え、世界のレイヤーが違うのだと思うかもしれないし、私たちの意識の外を見ているのだと思うかも知れない。私と人形の存在する空間を、あたかも二つの世界が混じり合ってしまったかの様に感じるかもしれない。そういう考えを面白いと思うか、怖いと思うか、無意味と思うかは各人次第だが、思考の可能性は膨れ上がるのだ。

 もし、人形が限りなく人間に近い場合にも、何か新たな欠落を私たちはそこに認めるだろう。この欠落というのは、球対関節人形だけではなく、その他の芸術にも有効な表現であると思っている。自画像、彫刻、小説など。その欠落は私たちをぞっとさせ、身の強張る思いに駆られるが、その原因が掴めない。その原因は人間の深層にあって、それを表面まで持ち上げるのは不可能だ。

 時に、球体関節人形は少女が作られていることが多いが、その中で特徴的なのは少女的な割れ目が表現されているということである。或る意味これが少女を少女たら占める要因なのかもしれない。未成熟さを示し、少女なのだ、と。勿論これだけでないはなく、服を纏わせてこれを隠す場合にもそこは秘められた領域だ。

 と、ここまで何やら意識とか、人間の良く分からない辺りについて書いているが、そういう部分に働きかけるのが人形であり、芸術の一つだと思っています。

 

 ここまで書いてきてなんですが、私は球体関節人形の実物を見たことが無い。実際に展示されている場所は少ないし、機会を得るのは難しいのだ、と思う。単に行動力が無いのかも知れないけれど....

 少なくとも球体関節人形に対して、まだ多大なる余地を残してしまっている。これを嬉しい事かもしれない。球体関節人形を被写体に収めた画集は数多く存在する。球体関節人形においてもっと有名なハンス・ベルメールや、私の知りうる限りでは天野可淡恋月姫四谷シモンなど画集は読んでみたいところです。

 更に現代作家であれば雨沢聖、眞宮サイなどが魅力的だ。Twitterを見てみると良いと思います。(敬称略)

 あと雑誌「夜想」のDOLL特集は面白いですよ。そもそも「夜想」という雑誌自体が面白いです。特集で「少女」「少年」「屍体」「シュルレアリスム」など興味を惹く特集が多いです。

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