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ポール・オースターという"非在" 【ニューヨーク三部作(幽霊たち, ガラスの街, 鍵のかかった部屋)】

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 ポール・オースターと言えばニューヨーク三部作が有名である。何故有名なのかは正直読めばわかる。これは普通の小説とは違う異質を纏っているのだ。

 この三部作に通底していることとして、私は "非在感" を挙げたい。それは、主人公ないし著者自身に関してもだと考えている。
 基本的に三部作のどの作品においても、既に終わった出来事を回想するような形で記述された小説である。すると何が起こるかと言うと、過去の記憶にはなにかしらの欠如があるという事、あるいは思い違いや想像が含まれているかもしれないということである。そして、主人公自身が、そういう可能性があることを自ら指摘したりするのだ。

 

 「ガラスの街」においては著者であるポール・オースターと同じ名前の人間が出てくる。ここで注意したいのは、同じ名前だからといって、小説内に出てくるポール・オースターは著者であるポール・オースターとは別であるという事である。これは小説内においても以下のような会話が出てくることで暗示されている…様な気がする。

どなたでしょう、と老人はクインに尋ねた。
「ピーター・スティルマンと申します」とクインは言った。
「それは私の名前です」とスティルマンは答えた。「和達しがピーター・スティルマンです」
「私はもう一人のピーター・スティルマンです」とクインは言った。
「ああ。私の息子のことですか。うん、それはありえますな。あなたは息子と同じように見える。もちろん、ピーターは金髪であなたは黒髪です。ヘンリー・ダークではないが、髪はダークだ。だが人間というものは変わるものです。ある時はこういう人間であっても、あっという間に別の人間になったりする。

 この引用とも関連することだが、オースター作品における名前とはほとんど意味を持たないように思える。名前は付箋に書いて一時的に貼られた呼び名のようなもので、簡単に貼り付けも剥がしも出来る。目の前の他人に友人の名を貼ることだって可能である。
 「鍵のかかった部屋」では、主人公に名前が無く、「僕」として物語を語る。更に「ガラスの街」に登場したクインに似た名前クィンや同じ名前のスティルマンなどの名前が出てくる。これは意味の無いことだろう。幾ら名前が似ていても、あるいは同じ名前が出てきたとしても、それは前作の物とは何のかかわりのない他人である。

 重要なのは、全ての他人は自分の頭の中にいる。という事かもしれない。あらゆる錯誤の中で、結局全ては自分自身に掛かっているとも言えるかもしれない。

 オースターは自分の非在を求めている、様にも思えた。それはガラスの街に出てくる「ドン・キホーテ」の説話に暗示されているのだ。この説話に関して問題となったのは、ドン・キホーテに出てくる、ある作品の作者は誰なのかという事だった。それがそのままこの「ガラスの街」の作者は誰か?という領域まではみ出てくるかのような印象を持たせるかの様に主人公が自分の身辺のことを語るのだ。その意味では、箱の中の箱、小説の中の小説という雰囲気が漂っている。
 ある作品が書かれたとすれば、作者がいるのは必然である。どんなに論理学や哲学的に作者を外に追い出したとしても、一度現実に立ち返ってしまえば、作者は容易に現れてくる。
 私にわかるのは「ガラスの街」を書いたのも、「幽霊たち」を書いたのも、「鍵のかかった部屋」を書いたのも全て、固有のポール・オースターその人である。こんなことを改めて書かねばならないのは、この小説の特異性の為なのだろう。

 

この三部作はそんなに長くも無いのでおすすめです。

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