仄暗いほど柔らかい

晴読雨読の日々をつらつらと...

短歌という衝撃に魅せられた今年を振り返り、印象的だった短歌たちを紐解きつつ読み返す。

備忘録的な今年の振り返り(読み飛ばしても問題無しです)

 忘れもしない2018年5月21日、私はブックオフである歌集を手に取った。

 それを手に取ったのは、私が舞城王太郎好きだったことに起因していて、アマゾンで舞城を検索した時に、その長くて印象的なタイトルの歌集を目にしていたことによる必然的な偶然だった。(この歌集には舞城作の掌短編が付録として付いているため、検索に現れた)要は手にするべくして手にしたわけである。

 その歌集とは、

 

木下龍也、岡野大嗣による共著「玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ」である。

 その時は、読んでみて面白くなかったらメルカリで売ろうという考えで何気なく買った。(因みに200円で売られていた!)けれど、実際に読んでみれば、その内容は衝撃的という他にない、世界を揺るがすものだった。短歌というのはこんなにも自由で、たった31字でこんなにも世界がつくれるのか、と感嘆したのだ。

 そこから私は短歌に嵌り込み、短歌で検索をして穂村弘という名前を知り、ラインマーカーズを購入し、その熱量を落とさないまま、剰え短歌というものをろくに理解していない状態で短歌を50首作って角川短歌賞に応募した。(勿論落選だったが)

 その後、熱は一気に引いてしまい、暫く勉学の方に専念していたのだけれど、6月末になって全国短歌大会というのがあり、短歌を募集していることを知り、また再熱したのだ。

 そんな熱の上下が激しい私だが、今はずっと熱を一定を保ったまま、日常で短歌のためのメモを付けることが増え、すべての概念が楽しくなった。色んな歌集を読み、歌人にはそれぞれ特性があることも知ったし、短歌的余白の奥深さに惚れていった。

 なので最初の方は木下龍也さんあるいは岡野大嗣さん的な短歌を作ることが多かったけれど、今は割と自分の試してみたい31字を模索しながら作歌している。

 しかも、短歌はこの世界を鋭い視線で見つめているがために、短歌以外の分野においても影響を及ぼすようになった。例えば最近はパサージュ論なんかも面白く読めるようなった。おそらく、抽象的な観念?とか論理とかを楽しめるようになったのだ。これはかなり大きなことだと思う。

 長い自分語りはこの辺にして、今年読んだ短歌の中から、印象に残っている短歌を紹介しようと思いますが、特に今年出版されたものとかいうわけではなく、私が手に取ったものの中からの紹介なので知っている人にはああそれねという感はあると思います。

 

 【印象に残っている短歌】

(以後敬称略)

 まず手始めに笹井宏之から行きたい。

風。そしてあなたがねむる数万の夜へわたしはシーツをかける

 個人的に笹井宏之の短歌は美しく飛躍する短歌だと思っています。論理的な裏を突いたりするのではなく、イメージ的には遠い何かを引き寄せて、明確さよりも淡いに生きているような神秘さを描く。夜の街、家々の明かりが消えてゆき、その頭上に真っ白いシーツが覆いかぶさるようなイメージが私には心地好く思える。あなたの為だけではなく、数万の夜という個々、という全体へ意識を寄せる豊かさがとても好きです。笹井宏之の短歌は何度読んでも楽しい。なんだかふわふわしているのだ。いい意味で軽さがある。

 

 次は穂村弘だ。数ある名作の中で、今一番私の中でリフレインされているのは、

ラケットで蝶を打ったの、手応えがぜんぜんなくて、めまいがしたわ

 もうなんだか眩暈する。この眩暈がしてしまう理由は多分、重さだろう。ラケットで打つには、蝶は軽すぎるのだ。現実的な蝶の質量と蝶の生命というものの重さ。この次元の違う二つの重さを同時に感覚する、手ごたえは軽いのに重い命を奪ってしまったという感覚を得るのだ。これは眩暈だ。

 

 次は雪舟えまだ。

とても私。きましたここへ。とてもここへ。白い帽子を胸にふせ立つ

 この歌には考えるよりも先行して言葉が溢れだしてしまったかの様な感情の昂りが感じられる。何処かに地に立った彼女の感動が破調からも伝わってくる。白い帽子を胸にふせ、という部分もまっさらなキャンバスのような白さを思わせ、まだ染まっていない清廉さも感じられる。これ凄い好きです。

 

 次は兵庫ユカ。

知覚しているより青くさみしさを喩えたことの罰なのだろう

 読んだ瞬間はっとせずにはいられない歌だ。短歌は比喩の極限であると言える、と思っているが、その意味でこの歌は警告であるようにも思える。短歌において、特別なものを拾い過ぎるのはどうなのだろう、という意見を何処かで読んだ気がするが、それと関連しているのではないだろうか。

 

 鳥居

 水とお茶売り切れになる自販機は大人が多く居る階のもの

 この気付きは非常に敏感で、かつ鋭い。子供が大人という存在をここまで意識し、敵意を露わにしている光景、それはこちらを睨みつけているかのようで、子供らしい無垢さとは別の、余りにも悟るのが早すぎたかのような、自分が個人だと理解していて、何の躊躇く走り出してしまいそうな、そんな危うさを感じた。

 

 冬野きりん

ペガサスは私にきっと優しくてあなたのことは殺してくれる

 言葉の強さに圧倒された一首である。明らかに論理を超えた所から彼女はこの言葉を吐き出しているかのよう。しかしこの歌は、狂おしいほど冷静だ。

 

 岡井隆

つきのひかりに花梨が青く垂れてゐる。ずるいなあ先に時が満ちてて

  時が満ちていることをずるいというわけだが、正直あまり理解が出来ていない。この花梨のどういう部分を時が満ちているのか分からない。けれど、何故かずるいなあという言葉には同意したくなるのだ。

 時が満ちる、それは連続的に過ぎていく歳月の中での自分という人間におけるピークのことだろうか? というか、ずるいなあというのはそもそも花梨に対して言っているのだろうか?それとも別の?でも口にしたくなる短歌である。

 

 中澤系

 三番線快速電車が通過します理解できない人は下がって

 一般的に、三番線快速電車が通過しますと言われたら、「ああ電車がくるんだ、危ないから少し下がろう」と思うわけだが、その連想が出来ない人(そんな人は殆どいないだろう)のための、理解できない人は下がって、である。何故こんなにも引っ掛かるのだろう。実際の駅内放送は「黄色い線の内側にお下がりください」と言うわけだけれど、それとは違って「理解できない人は下がって」という言葉には何か冷たいものを感じる。

 私が思うに、この短歌の世界ではある種の平等が実現しているのだ。ここで言う平等とは、電車が来るという事実から、後ろへ下がるという行動を、誰もがとれるようなアナウンスをするという平等である。しかしこの平等には暗い影があるように思える。既述のとおり、三番線快速電車が通過します、から一歩下がるという行動へ結びつくには連想というか、刹那の思考が必要なのだが、仮にそれが出来ない人がいるとしたときに、その人たちを蔑視しているような、低くカーストづけているかのような、そういう社会的な悪意を感じた。このような平等に見せかけた悪意が垣間見えるこの歌に私は恐怖した。言わずもがなだがこれらは、この短歌における世界(社会)が、であり、中澤系が、ではない。

 

終わりに

 何か重要な短歌を忘れているような気がする、が、一先ずここまでにします。

お読みいただき有難うございました。